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2021.11.29

ディレクター 前田英治

デジタル通貨導入に向けた動き

中国のナショナル・バンクである中国人民銀行は2021年7月16日、デジタル人民元の実証実験での取引額が約5,880億円に達したと伝えた。中国は2014年からデジタル通貨導入のプロジェクトを開始しており、2020年10月からデジタル人民元を試験的に発行し、市中での利用を想定したパイロット・テストを大規模に実行している。デジタル人民元はアプリをダウンロードすることにより使用可能で、これまで累計2,000万人近くがバーチャルウォレットを開設し、7,000万件を超える取引が行われたそうだ。約20年ぶりに紙幣を刷新し、2024年上半期の発行を目指してこの9月1日に新紙幣印刷開始式を行ったばかりの日本とは、随分とした温度差だ。

中国は基軸通貨となっているドルの覇権を崩すべく、いち早くデジタル人民元を普及させ、来たるデジタル通貨時代をリードしようとしているのだろう。デジタル人民元の発行元は中国人民銀行であるため、これが浸透すると実質的に中国政府は脱税やマネーロンダリングの防止のみならず、全国民や全企業の経済活動の中身をいつでも見られることになるのではないだろうか。デジタル人民元の現行の設計では一定額未満の用途は匿名になる、などの配慮は現状あるようだが、今後どうなるかはまだ分からない。

実は、中国よりも先に世界に先駆けてデジタル通貨を正式に導入した国がある。カリブ海の島国、バハマである。2020年10月20日、バハマ中央銀行はデジタル通貨「サンドドル」の発行を開始した。その8日後にはカンボジアでもデジタル通貨「バコン」(ちなみにバコンの開発を行ったのは日本のベンチャー企業、ソラミツである)の発行が開始された。デジタル通貨の導入はクレジットカード等の手数料が不要になることや、現金の保管・移動コストが不要になること、銀行口座を持てない人でも簡単にオンライン決済ができるなどのメリットがある反面、1国の中央銀行がデジタル通貨を使った取引を追跡できる状況になるため、経済活動の国家に対する匿名性が犠牲になる。つまり、国民は便利さを享受することと引き換えに、その経済活動を管理されうることになるのである。

これでは生活や企業活動のすべてが国家に丸見えで、まるで全体主義体制のような感じにならないだろうか。かつてイギリスの小説家ジョージ・オーウェルが「1984年」で描いたディストピアの世界のように、国家によって常にすべての行動が露骨に監視される社会が本当に到来してしまうのだろうか。また、仮に監視するにしても現代においてそのような方法が有効なのだろうか?

そこでまず、国家権力が人間を管理する方法論について検討してみよう。

規律として浸透する権力

国家権力による人間の管理と言われて思いつくのは、まず刑務所ではないだろうか。日本でも刑務所は75箇所存在しており(2019年7月時点)、奈良県を除きすべての都道府県に設置されている身近な存在である。

なぜ罪を犯すと刑務所に送られることになるのだろうか?

「社会人としての矯正」が目的にあるということは誰でも想像がつくが、かの有名な哲学者ミシェル・フーコーが見ている姿は全く別のものだった。

現代からはとても想像ができないほど、残酷な身体刑の事細かな詳述から始まることで有名な「監獄の誕生」※1をフーコーが著したのは1975年のことである。フーコーの書物は難解なものばかりで読解できたとはとても言えないのだが、誤解を恐れずに簡潔に言うと、フーコーが「監獄の誕生」で描いたのは、権力が時代の流れに応じて変容しながら巧みにその姿を隠しつつ、規律として社会に浸透していった(そして現在ではあまり「権力」は日常生活で意識されなくなった)原点のようなもの、ではないだろうか。

かつて、身体刑は国王の絶対的権力の象徴であったが、処刑を実行する側も見る側も大きな精神的負担を強いられるものだった。やがて啓蒙思想が広がる中で、身体刑のあり方は人間の尊厳に真っ向から反対するものとして、民衆の暴動の原因にもなっていく。ちなみに、この啓蒙思想がヨーロッパを中心に広がったのは18世紀であり、産業革命が興った時代でもある。

18世紀半ばには、英国において始まった産業革命がやがて欧州全域に拡大するとともに、新たにブルジョワジーという有産市民階級を生み出した。ブルジョワジーは自ら資本家となり財の生産手段を持つため、労働者の確保が自らの経済活動にとって重要な意味を持っていた。そんな彼らにとっては、労働者が一致団結して資本家に抵抗することを防ぐことや治安を乱し財産権を侵害するような盗難などを防ぐことが刑罰の目的であり、非効率で見るに堪えない派手な身体刑などは必要がなかったのだ。ここに、監獄という新たな刑罰の形が生まれることになったのである。

監獄での日常生活は事細かに規則が定められ、受刑者は規律正しい生活を強制されることになる。

なぜ監獄でそのようなことをしなければならないのか?

それは、監獄が矯正施設だからである。ここで受刑者は規律正しい生活に慣れ、社会に戻っても以前のようにルールを守らない人間ではなく、社会が求める規律に従って秩序を乱さず生きていくことが求められる。

そこで発明されたのが、パノプティコンという監獄様式だ。パノプティコンとは、一望監視方式ともいわれ、監獄の中央にそびえ立つ塔を囲むように囚人を収容する牢屋が円形に並ぶ特異な形をした監獄である。塔の中からは外に向かって光が常時照らされており、塔の方から牢屋の中は丸見えになるが、牢屋からは塔の中が見えない仕組みになっている。牢屋の中の囚人はいつ看守が自分を監視しているか分からないため、常に監視されているかもしれないという心理状況に置かれる。看守が実際に居るか居ないかは関係なく、いつしか囚人自身が自らを監視しているような状況に変容するのだ。これを規律の内在化という。監獄は、規律の内在化を生み出すシステムといえるだろう。

こうして、権力の姿は派手な見世物のような身体刑から、監獄に閉じ込めて静かに自由を奪う技術へと変貌していったのだ。では、現代ではどうなっているのだろうか。

現代の監視社会

Googleが創業したのは1998年である。こんにち、Googleを使わない日は無いくらい私たちの日常に深く浸透している検索サービスが、実は生まれてからまだたったの23年しか経っていないのだ。インターネットサービスの普及により、この20年余りの間に私たちの生活の質は大きく向上し、情報は無料で世界中からいくらでも集めることができるようになった。しかしその一方で、私たちは自分たちのプライバシーを様々な企業に売ってしまっているということをお気づきだろうか。

私たちは利用するWebサービスが無料かどうかをすぐに気にするが、一方でネットサーフィンをしている私たちの知らない間に、知らない何者かが私たちが今どこで何をしているかという情報を収集し、それが広告主に売られ、それを入札で競り落とした広告主が、私たちが見ているインターネットのページ上に現れ宣伝してきている事実は、あまり意識されていない。

「監視資本主義」※2という本の中で描かれているのは、そんな現代の監視社会だ。といっても、パノプティコンのようなあからさまな監視ではなく、監視されていることすら気づかないような監視体制が日常に敷かれているという話である。監視主体は、GoogleやFacebookを中心とする広告企業であるが、彼らは何のために監視するのか?それは、簡単に言ってしまえば金儲けのためだ。

私たちが何に興味を持って、今どこで何をしているのか、どういう家族構成でどこに住んでいて、金曜午後9時頃はだいたいスマホを手にとって何を見ているのか。この情報は、テレビ番組を決まった時間に流してそこで広告を打つよりもはるかに価値があることは容易に想像できる。なぜなら、これまでのように誰が何をしながら見ているかも分からない状態でテレビの向こう側にいる視聴者に広告を打つよりも、興味を持ってその広告をクリックする確率が高いからだ。GoogleやFacebookは、こうして私たちの行動を「資源」として貨幣価値に変換する。今やGoogleは世界の検索エンジンシェアの約7割を占め、Facebookの月間アクティブユーザーは27億人と言われている。

「監視資本主義」が指摘しているのは、私たちの行動データを資源のように収集し換金している話だけではない。私たちの行動そのものをも変えうることが指摘されている。例えば、Facebookはフィードを使って私たちの興味や感情を操作することができ、ポケモンGOはある特定の場所に大量のゲームユーザーを集めることができる。私たちがとる近未来の行動は、「行動先物市場」の商品として売買されることになるのだ。この市場の顧客は、将来の行動予測が確実だと見込んでモノやサービスを売ろうとする企業である。つまり、私たちの行動データだけではなく、私たちそのものも資源として日々「発掘」されているのだ。

そんなことが許されるのだろうか?私たちのプライバシーは誰も守ってくれないのだろうか?

しかし、この問いに意味はない。面倒くさいからと読み飛ばしている利用条項の中に、私たちの行動データが利用されることは明記されており、私たち自身が認めたことになっているのだから。便利さの代償として、自分のプライバシーを犠牲にしていただけである。

とはいっても、人は他人に決められることは嫌がるものだ。程度の差はあれ、自分のことは自分で決めなければいけない、主体的に生きろと言われて私たちは育ってきている。つまり、自分のことは自分で決めなければいけないという個人主義的価値観の世界に育ちながら、他人の介入が許される構造を目の前にして、人はあまりにも無防備に見えるのだ。

この状況はなぜ生じているのだろうか?

それを理解するために、少し遠回りになるが重要なキー概念について考えてみよう。

予言の失敗とその後に起こる布教活動

1956年、のちの社会心理学に大きな影響を与える研究結果が、ある状況に陥ったカルト集団の顛末を追いかけた研究者たちによって発表された。その研究者の一人が、レオン・フェスティンガーという認知不協和理論の提唱者として心理学界のみならず幅広く知られる人物である。以下、彼らの著書「予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する」※3の内容を簡単に押さえておこう。

1954年9月の終わりころ、米国のとある地方新聞に記事が記載された。その記事とは、同年12月21日に大規模な地殻変動と大洪水がアメリカ大陸を襲うという予言であった。大半の人は見向きもしなかったが、フェスティンガーらにとってはまたとない機会だった。なぜなら、当時彼らは認知不協和の理論構築を目指し、予言の失敗とその後に起こる布教活動について過去の歴史を調査していたのである。文献からの調査によると、予言が外れたことが誰の目にも明らかになった時、その予言を信じて疑わなかった人は、予言の誤りを認めないばかりか、さらに熱心に布教活動を試みるというのだ。フェスティンガーらは、このような文献調査から得られた結果をリアルタイムに実証するため、信者の一人を装って新聞記事に記載された予言を信じる信者のグループに近づき、活動の中心人物達とコンタクトを取り続けた。

そして想像の通り、12月21日になっても地殻変動や大洪水は起こらず、救出に来るはずのUFOも飛んではこなかった。この時の信者の気持ちはどんなものだっただろうか?予言を信じて自分の家財を全て放棄した人もいたほどである。預言者を嘘つき呼ばわりして暴動が起こってもおかしくない状況だ。しかし、実際はそうはならなかった。「自分達の熱心な信仰が神に通じ、地球規模で起こるはずの未曾有の大危機を未然に防いでくれたのだ。」、信者達はこう考えた。であるならば、自分達が従ってきたこの素晴らしい教えをさらに広めなければ、と。

このくだりは認知不協和の発生とその解消のプロセスそのものである。信者がとってきた行動は見事なまでに外れてしまい、惨めな現実が誰の目にも明らかになってしまった。この時点で自分達が信じて行動してきたことと、その結果が何のインパクトもなかったという事実との間に完全な矛盾が発生してしまい、信者達は強烈な認知不協和状態に陥った。これを解消するためには、自分達の認識を変更すれば良い。つまり、自分達は正しかったのだと。正しいがゆえに世界が救われたのだと。

フェスティンガーらの調査によると、12月21日以後の信者の動きはある要因を軸に2つに分かれることが分かった。

1つは、予言が外れた時に他の信者と行動を共にしていたメンバーである。結論を先に言うと、行動を共にしていたメンバーは、予言の失敗という現実に対して「予言内容が誤りである」という認識は持たなかった。予言を信じたおかげで世界は救われたのだ、と考えるにしても、「単に正当化しているだけではないか」という疑念はやはり拭えず、外れたことが明らかになったインパクトの大きさは否めない。しかし一方で(はたから見れば正当化しているだけだが)、予言を信じて疑わない仲間たちが自分にはいる。これが結果的に不協和状態を和らげる社会的支持として作用した。

もう1つは、予言が外れた時に他の信者とのコンタクトが取れず、孤立していたメンバーである。正当化して信仰心を維持することもできたはずだが、自分の信念を共有できるメンバーが周囲にいなかった。予言の失敗からくる認知不協和の大きさに耐えきれず、孤立したメンバーは自らの信念を放棄して、行動を変えたのである。

注目すべきは、行動を共にしていたメンバーはこれまで積極的に布教活動をしていなかったにもかかわらず、予言が外れたことが明らかになった後で急に布教活動を熱心に始めだしたことである。つまり、予言を信じて活動を続けてきたという「先立つ行動」がまず存在し、その行動に合致するように、後になってから「この予言内容は正しかったのである」という意識が形成されるということだ。認知不協和理論のスコープが捉える範囲が広範に及ぶ理由は、意識が行動に先立つのではなく、行動がまず先に存在し、意識が後から形成されるという、まさにこの逆転した順序の提示があるからだ。

勘がいい人はこの時点で気づいているかもしれないが、この点に近代以降生まれた「自律した個人」の姿を重ね合わせると、現代の支配がどのような姿になっているのかが浮かび上がるのである。

姿を隠した支配

私たちは日頃、誰かの意のままではなく、自分の意志で行動を制御していることは自明のこととしてあまり意識することはない。しかし、近代以前は必ずしもそのような考え方は自明なことではなかった。「自分がなりたい自分になる」「自分の価値を社会で証明する」こうした価値観は、小規模な共同体の中で相互扶助的に個人が暮らしていた時代には一般的ではなかった。

なぜなら、共同体に所属しているということ自体が個人の存在を認めうる全てであり、その共同体を離れるということは自分自身の存在の否定を意味していたからだ。

近代以降に入るとこの前提が大きく変化する。近代国家が生まれ、共同体の中の存在としての関係は、個人と社会、個人と国家という関係に切り替わった。社会の中で個人は自らの意志で自分の将来を定め、自らの意志で社会の中の役割を果たし価値を証明することが求められるようになった。近代個人主義的なイデオロギーはこうして広く社会に浸透し、今に繋がっているのである。

したがって、自分の意志で行動しているという感覚は、あらゆる人間にプリセットされている感覚ではなく、人間の社会活動から生まれ、社会に流布した結果生じた後天的なものである。個人主義的思想が強い人とは、自分の身の回りで起こったことを自分の意志で起きたことだという見方をする度合いが強い人のことなのだ。

ここで、認知不協和の話に戻ろう。個人主義的思想が強い人に認知不協和が生じた場合、どのようにしてそれを解消するだろうか?いうまでもなく、自分の意志で行ったことだと解釈する傾向が強くなるだろう。子供時代には親の存在、学校教育やクラブ活動、社会に出れば社会のルールがあり、私たち個人は決して自分の意のままには動くことはできず、社会が押し付けてくるルールに従わなければならない。自分の意図と行動との間に矛盾が生じ、認知不協和が度々生じる。しかし、個人主義的思想の持ち主であれば、それは自分の意志でそのルールに従っているのだという「解釈」が成立する。

かくして、自分の意志で行動を決めるはずの近代的自律的個人像は、支配を受け入れる時に生じる認知不協和の解消に一役買うことになり、結果として、より自律的な人ほどより支配体制に組み込まれ易いという逆説的な関係が出来上がっている。しかしこれが、自律した個人という近代のイデオロギーが、当初の意義から姿を変え、支配体制を下支えする共同主観として人間社会で機能している本当の姿なのだ。そこにあるのは自由と支配という見かけ上の二項対立ではなく、「支配のテクノロジー」と「支配される側の認識論」の組み合わせが、その時代やその地域の社会構造にとって最も秩序維持に資する形に変形しているという構造である。古今東西あらゆる地域の支配体制は、結局これら2変数の組み合わせからなるベクトル空間のようなものとして捉えられるのではないだろうか。

人間社会に支配のない世界はあり得ない。必ず何らかの形で支配が及ぶ。支配を敏感に察知する人間のセンサーをかいくぐり、自由を感じさせながら規律に従う個人を大量に生産することに成功している現代社会は、一つの局所最適解に辿り着いている。

以上のような想定をしつつ、中国が今後、どのようにしてデジタル人民元を普及させ経済活動をコントロールしていくのかをウォッチしていくことには、多くの学びがあることだろう。

※1 Michel Foucault (1975), Surveiller et Punir Naissance de la Prison (ミシェル・フーコー  田村俶 [訳](2020). 『監獄の誕生 監視と処罰』 新潮社)

※2 Shoshana Zuboff (2019) , THE AGE OF SURVEILLANCE CAPITALISM : The Fight for a Human Future at the New Frontier of Power (ショシャナ・ズボフ 野中香方子 [訳](2021). 『監視資本主義―人類の未来を賭けた闘い』 東洋経済新報社)

※3 Leon Festinger, Henry W. Riecken, & Stanley Schachter(1956), When Prophecy Fails: A Social and Psychological Study of a Modern Group that Predicted the End of the World(レオン・フェスティンガー他 水野 博介[訳](1995). 『予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』勁草書房)

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