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三方よしについて少し考えてみよう
価値観を見直すきっかけ
新型コロナウイルスが蔓延する中で、本当に大事にしなければならないものはなにか、今まで当たり前だったものがそうではなくなったとき、改めてありがたみを感じたり思い直したりした人も多かったのではないだろうか。
多くの企業は活動自粛の影響を受け、生き残りに必死となっていた。とある大手アパレル企業はOEM先に対し発注をキャンセルし、とある飲食店は仕入先となる農家などへの影響を考え、高級食材を破格の安さで提供して仕入れを継続させた。また、営業できない多くの個人飲食店のために、スマホを使って簡単にデリバリーの注文受付と資金決済ができるプラットフォームを素早く構築し、それを無償で広めようという動きもある。こうした振る舞いはSNSなどで批判や称賛を巻き起こしたが、改めて企業活動をすることと社会との関係はどうあるべきなのかについても考え直すきっかけがあったと思われる。
三方よしの定義・由来
日本には古くから言い伝えられている「三方よし」という概念がある。これは近江商人と呼ばれる中世から近代にかけて活躍した日本を代表する商人たちの行動哲学とも言えるものであり、商売をするにあたっては自分本位の商いをしてはならず、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」となるものを目指さなければならないとするものだ。
なぜこういう思想が必要になったかというと、それは近江商人の商売スタイルと密接な関係がある。彼らはそもそも近江国内で商売をしていたというよりは、他国に出向いて商売をする「行商」スタイルを取っていた。地理的に都に近い利を活かし、上方の物産を地方に持っていきつつ、地方の物産品を持ち帰って上方で販売する。こうした行商スタイルにとって不可欠なのは、なんの縁もゆかりもない未開拓の地方に出向いて信頼されることである。
そこで彼らは信頼を勝ち取るためには、自分の商売が世間に役に立っており、それでいて高い利益を取っているわけではなく、地域へ貢献するためにやっているという姿勢を見せ続ける必要があった。彼らの姿勢は徹底しており、出先の地方で営業基盤が出来上がって100年経ち、地域に根づく存在として受け入れられていながらも、自分たちは地域から見れば依然として「他者」であることを決して忘れてはならないと身内に忠告するほどであった。
こうして他者性を意識しながらも商いを拡大させていくうえで彼らの思想はやがて「三方よし」という言葉に凝縮され、今日にまで伝わっている。
デジタル・ディスラプション
コロナウイルスがこれまでの常識を崩してしまった現在、企業活動にはこの「三方よし」の精神がより一層求められていることは言うまでもないだろう。
他方で、コロナウイルスがあろうとなかろうと、経済社会にはそれを遥かに上回る大きなうねりがやってきていることも忘れてはならない。
それはいわゆる「デジタル・ディスラプション」という現象で、デジタルテクノロジーを用いた新興企業が既存産業をまるごと破壊してしまいかねないほどのインパクトをもたらしていることを指している。Amazonの影響を受け当時全米最大の書店チェーンであるバーンズ&ノーブルズは倒産し、小売業も続々と倒産した。こうした影響は特定の業界だけにとどまらず、広く「Amazonエフェクト」として恐れられるようになった。
それ以外にもUberやAirbnbはそれぞれタクシー業界、宿泊業界に大きな影響を与え、既存業界と摩擦を起こしながらもユーザー数を伸ばしている。
ディスラプションは三方よしなのか?
ここで、上記で上げたような事例は「三方よし」の思想にとって何を意味しているのだろうか?確かに「三方よし」は日本版CSRとも言われることもあり、誰も否定しようがない内容である。しかし、誰も否定しないということはそれだけ内容を吟味されずに受け入れられている可能性もある。
さらに言うと、「世間(=この場合は競合他社などの旧勢力)」と摩擦を起こしてでもユーザー体験の改善にコミットし続けることで多くのユーザーからの支持を得ているAmazonのようなディスラプターが複数存在する以上、三方よしの哲学はもはや時代遅れなのではないか?という疑問が湧き上がる。三方よしは確かに大事な考え方ではあるけども、一方で周りに敵を作りながらもディスラプターが広くユーザーの支持を得ているのも事実で、どちらも間違えているとは言えない。少なくとも三方よしは大きな変化を生み出すには向いていない考え方ではないのか。
このように一見すると双方正しく見えるものの概念的には対立しているような状況に遭遇した場合、別の新しい概念を付け加えるか、もしくは双方をさらに抽象化して包括するような概念を持ち出すと新しい理解が促される場合が多い。
新しい考え方の提案
今回のケースでは、「動的平衡」がまずポイントになるだろう。
「三方よし」とは、いわば「三方向のバランス」が重要ということであるが、バランスは「動的平衡」と「静的平衡」に分類できる。
動的平衡の身近な例としては、我々人類を含めた生命体が挙げられる。人間は外から見ると何ら変わりなく姿形を維持しているように見えるが、実はミクロの世界では毎日1兆個近くの細胞が入れ替わっていると言われている。人体の細胞は約60兆個なので、2ヶ月もすれば見た目は変わらなくてもミクロの世界では全く新しい「人間」が出来上がっているのである。
このようにミクロでは出入りが激しく生じているものの、出入りの量が均衡しているためにマクロ的に見ると変化していないように見えるものを動的平衡状態にあるというが、三方よしの概念が意味しているバランスもまたこの動的平衡状態を意味していると理解できないだろうか。(静的平衡はこの逆と理解してもらえれば良いので、説明は割愛する)
インターネットの技術が発達する前の世界では、人々は本を探しに本屋に寄ればよかった。駅前や大規模な商業地の中で大きな店舗面積で展開する本屋はアクセスがよく、またそこにいけば大抵の本が見つかるということでとても便利なものだった。また、本を卸す側にとっても大量の書籍が捌けるため、書店チェーンはありがたい存在だった。そこには確かに今から見れば牧歌的にさえ見えるBefore Amazonの世界における「三方よし」があったはずだ。
ところがAmazonはインターネットの技術を前提にすると、そのような「三方よし」は書店に本を買いに行く消費者にとってはとてつもなく非効率であることを示し、消費者もその利便性を支持した。つまり、本は本屋で買うよりもネットで買うほうが便利だと考える新しい「買い手」が生まれたため、それに対応した新しい「三方よし」を構築する必要が生じたのである。
ミクロ的に見ると大型書店の倒産とAmazonの興隆という現象が生じたものの、それらは三方よしの動的平衡過程の1局面に過ぎないという理解ができる。
動的平衡過程としての「三方よし」が示唆するもの
また、「三方よし」を動的平衡過程と捉えることによって、さらに別の視点が浮かび上がる。
現状、「三方よし」はCSRとの関連から注目されているように、主にその着眼点は「世間よし」にある。平たく言うと、自分が儲かることばかり考えていては駄目ですよ、きちんと世の中にも貢献するような視点を持たないと長続きする会社は作れませんよということになろうかと思う。
「売り手よし」「買い手よし」はデフォルトで成立しているだろうという話の上に、「世間よし」を加えたことが「三方よし」を特別なものにしているという見方だ。
ところが、昨今のように頻繁にデジタル・ディスラプションが起こるほどテクノロジーの発展が進んでいくと、上記のように「売り手よし」「買い手よし」がデフォルトで成立していると見て良いのか甚だ疑問が生じる。売り手も買い手も頻繁に、かつ速く動いていくからだ。動いている「的」を自らも動きながら狙っているようなものだ。
「世間よし」は確かに最重要とも言えるが、それを目指すための土台とも言える「売り手よし」と「買い手よし」の的が外れていないか継続的に確認し続けることはさらに重要と思われる。
「三方」すべてを見直し続けなければいけない時代
ここ数年ほど得意先の上位ランクの顔ぶれが全く変わらず、かつ継続的に少しずつ売上が落ちているような場合や、特定の得意先・仕入先への依存度が極端に高い場合が継続的に見られるような場合、もしくは相手先とwin-winの関係がどうも最近築けていないと感じるならば、それは的が外れている兆候かもしれない。その状態で「世間よし」を語ろうにも、自社の状況が変わればその舌の根が乾かないうちに前言を翻さなければならなくなるだろう。
「世間よし」を今の状況に付け足せばよいという考えは、「三方よし」を静的平衡過程で捉えていることを意味する。そうではなく、動き続ける「売り手」と「買い手」の新たな均衡点はどこなのか、それを模索しながら「世間よし」を達成するにはどうすればいいか、こういう文脈から「世間よし」を語りたいものである。